仕事

還暦まで勤め続けた金融機関パート20年以上の軌跡(奇跡)

仕事

40年前の就職事情

時代は高度成長期を経て、日本経済安定成長期。

お給料は右肩上がりを疑わず、就職難・就職氷河期という言葉などなく誰もが希望すれば何処かしらに就職できる時代でした。

女性においては金融機関、一般企業ともに大卒よりも高卒・短卒のほうが採用数が多く、就活に何の不安も抱いていませんでした。

携帯電話もインターネットもない時代の就活は、インターンシップ・エントリーシートといったカタカナ用語もなく紙の履歴書1枚の就活。
自分の能力も顧みず、お気楽に大手企業の企業訪問や企業説明会に参加した記憶があります。

私が今の時代の若者だったら、到底どこにも採用されないでしょう。

40年前の就活の結果

「公務員と金融機関はお給料がよく安定している」と子供の頃から母に洗脳され、また世間のそういう風潮にも惑わされそうになっていました。

しかし商社に憧れていた私はS社の学内選考にチャレンジ → 結果:学内選考不合格
次に第2希望の商社K社の学内選考に申込み → 結果:学内選考は通るも採用試験で不合格
面接時に手応えがあったのでK社の採用試験に落ちることは想定外でした。

就職試験解禁日の初日の採用試験で不合格になるとその後の求人企業数がぐんと減り、選択肢が狭まります。

隙間だらけの求人掲示板に目を凝らしていると、とある金融機関の求人票が目に止まります。
見たことも聞いたこともない企業名でしたが「金融機関は安定企業よ」という母の言葉が頭をよぎり応募することにしたのです。

当時の私は物事を深く考えない、人生の夢や目標などない、就職試験に向けた準備も勉強も全くしないままに採用試験を受け運良く合格

「勉強したことを活かせる〇〇部を希望します」と図々しくも希望したところ、またも運良くその部署に配属されることになりました。

挫折からスタートした社会人生活でしたが、仕事は楽しくやりがいがあり人間関係も良好、アフター5も充実と、今思えば女性としても人生で一番輝いていた頃かもしれません。

筋書き通りの結婚退職

夢や目標はありませんでしたが、結婚して子供のいる家庭を持つイメージは持っていました。

縁あって結婚することになり20歳から6年ほど勤めた職場を結婚退職することになりました。

当時は寿退社(死語?)が一般的、今のように育休制度も充実していない上に、育児を経験していない社員からの理解も乏しく、私は何の迷いもなく結婚退職を選択しました。

仕事と家庭を両立できる自信が全くなかったのが一番の理由です。

育児ひと段落後に社会復帰

専業主婦の生活にどっぷり浸かり、髪を振り乱して息子たちを叱り飛ばす日々、社会とかけ離れた毎日を過ごす私にある日一枚のハガキが届きます。

12年前に退職した会社から、ビジネスパートナーとして「派遣社員募集」のハガキでした。
子どもたちが小学校高学年になったら家の近くでパートでもという思いはありましたが、当時次男がまだ小学校1年生。

通勤時間が1時間かかることに迷いましたが、無理なら1週間で辞めるつもりで実に安易な気持ちで応募し、派遣のパート社員として社会復帰することになったのです。

12年のブランクのあるパート社員にも関わらず、正規社員と同じ仕事をまかされ、自分にもできる!という喜びが大きく、家事・子育て・仕事と目が回るような忙しさでしたが仕事が楽しく充実した毎日を過ごしていました。

バブル崩壊で企業の倒産・合併・統合の時代へ

職場環境には恵まれていましたが、私がパート勤めしていた企業も、バブル崩壊後の経営統合や合併・店舗統合により職場がどんどん変わっていきます。

その度に別の企業、別の店舗の人間と関わっていくことになります。システム・事務手続き・事務用語・文化(社風)の違いに戸惑い頭が追いついていかなくなります。

と同時に預金や融資が主な取引だった金融機関にも、保険投資信託など新しい金融商品の取り扱いも始まります。
金融商品取引法・個人情報保護法の施行・本人確認義務等どんどん事務が煩雑化していきます。

病気で倒れて長期休暇

そんな折、健康には自信があった私が思いもよらぬ病気で倒れて入院してしまいました。

1週間の入院でしたが精神的にも不安になり仕事に復帰するのをあきらめていたところ、同僚のパートさんと上司のはからいで2ヶ月の休暇を許可してくれたのです。

2ヶ月後の復帰の初日は緊張の余りひきつった顔で出勤しましたが、職場の温かい励ましのおかげですぐ仕事の勘を取り戻すことができました。

しかし、しばらくは朝の通勤電車が不安で途中下車したくなることがたびたびありました。

真夏の脱水で脳梗塞発症|常備薬は抗血小板剤
16年ほど前から服用しています。まだ40代でした。猛暑の夏、脱水症状から血液ドロドロになり小脳梗塞になってしまったのです。抗血小板薬とは血管がつまらないように血液サラサラにするお薬です。虚血性心疾患や、虚血性脳血管障害後の...

常に変わる雇用形態

長く勤めていると、パートでも雇用形態が変わっていきます。

・最初はビジネスパートナーとしての派遣社員(半年更新)
・経営統合時に直接雇用のスタッフ社員(1年更新)(時給がこの時点で減額
・有期雇用の契約社員(1年更新)
・5年たって無期雇用の嘱託社員

雇用形態、呼称は何であれ、パートはパート。
正社員と同じような仕事をしたとしてもお給料は雲泥の差があります。
しかし有給休暇などは正規社員に準じており就業条件に関しては大変恵まれていると感じます。

アラフィフで窓口業務初体験

職場に5年ルールというのがあり、5年立つと部署を異動させるという制度がありました。

長く勤めていた私は5年毎にその支店内で部署を転々とします。
その度にまた仕事内容が変わり、頭のキレのいい若い社員から指導を受けますが、すでに歳を重ね過ぎた私の脳にはスムーズに知識が入ってきません。

明らかに若い時とは違う記憶力の低下をひしひしと感じる毎日でしたが、そんな私が最後にたどりついた部署は窓口業務

独身時代の正社員のときにも経験したことのない窓口業務を50歳でやることになるとは。。。

パートの異動で都心に勤務

何年か前の経営統合、店舗統合の余波はまだ続いており、ここ100人規模の支店にも人員整理・人員削減の司令が本部から出ていたようです。

そこで白羽の矢が私に当てられます。たまたま数年前に東京寄りに転居した私に都心への異動を打診されました。
迷いましたが窓口業務からの脱出を図るがごとく承諾しました。

こうしてあれよあれよと、気づけば名の知れた都心の大手企業が私の勤務地となったのです。

50代の転落人生|2話 二度目のお呼び出し
昨年のマンション騒動から1年がたちました。今度は義父から連絡が入ります義父買い物に便利な駅チカのマンションに引っ越すことにした義父今までの家にお前たち住むなら住めばいい!住まないならあの家は売っぱらう...

優秀な人材に囲まれて自信喪失

異動した都心の職場は、多くの部署が高層ビルに集約され、広くて迷子になりそうなフロアには人も多くOA機器が所狭しと設置され、殺伐としていて全く違う会社に配属されたような感覚でした。

仕事内容も、今まで苦労して覚えてきた仕事とは全然違う内容でゼロからのスタートです。

女性たちの都会的な洗練された服装、髪型、お化粧、振る舞いすべてが眩しく見え、アラフィフの私が地方の支店からポツンと放り出されたようで仕事を続ける自信を失った瞬間でした。

今まで培ってきた知識がまったく役に立たず、パートも含め周りにいる社員全員が超~優秀な人間に見えてきて、できない自分に自信喪失感MAX、3ヶ月過ぎた頃、初めて辞めたいと思いました。

励まされた言葉

自分の能力の無さに落ち込んでいるときにかけてくれた言葉です。

「優秀な人間のいる職場で今働いているってことは、少なくともそれに近いポジションにいるってことだよ。自信持ったほうがいい」

社会人になってまだ間もない息子に言われた言葉です。

その後、なんとか奮起して現在に至っております。

自分に言い聞かせてきたこと5つ

・辛い環境は半年は続かない。そこは少しの忍耐日々少しずつ変わっていく)
・できない仕事も、1ヶ月、3ヶ月、半年、1年単位で習得できる(いつか必ず覚えられる)
・職場を離れたら仕事のことは一切考えない(意識せずとも忘れますが)
余力を持って(8割程度)仕事する(パートが100%全力出し過ぎると回りとのバランスがとれない)
・迷った時は進む方を選択する

続けられた理由5つ

事務が向いていること(コツコツ地道な作業が好き)
数字や計算が好きなこと(家計簿が苦にならない)
遅刻はしたことがない(電車遅延による遅刻は除く)
人と関わるのが好き(井戸端会議も好き)
郷に入れば郷に従う(前の職場はああだったこうだったと思っても言わない)

以上、このように真面目でちょっと適当な性格の人は金融機関に向いているかも知れません。
「駄目なら1週間で辞めればいいや」と始めたパート勤務が25年も続いてしまいました。

金融機関で働くことに興味のある方はぜひ参考にしてみて下さい。

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