現在放映中のNHK朝ドラ「カムカムエヴリバディ」
第3週めあたりから何気なく見始めて、ドラマに引き込まれてしまいました。
上白石萌音さんの安子編の時代はまさに現在95歳になる私の母が生きてきた時代
安子は1925年(大正14年生まれ)、私の母は大正15年生まれです。
ドラマの舞台は岡山県ですが、母は東京生まれ東京育ち
地域は異なりますが、ドラマの時代背景となる太平洋戦争、学徒出陣、空襲など母から断片的に聞いた話と重なる部分がありぐいぐい引き込まれていったのです。
母の幼少期
幼少期は中野や茅ヶ崎など住居を転々とし物心ついたときには商売をする父親のもと神田に居住
昭和初期は自転車の販売台数が順調に伸びていた時代、祖父はその自転車の部品を取扱う商売で成功します。
商売人として祖父の全盛期の頃だったと推測いたします。
太平洋戦争はじまる
1941年、太平洋戦争が始まります。
(陸軍として戦地に赴いた今は亡き私の父は日本側の呼称大東亜戦争と呼んでいました)
そして母は1943年に明治神宮外苑競技場で行われた出陣学徒壮行会にも参加しています。
東京大空襲
父親の商売も順調で何不自由ない女学生の生活が一変したのは1945年3月10日の大空襲
焼夷弾を投下された直後、近所の金物屋の2階の窓から出火しているのを目撃し、危険を察した母の家族はリヤカーに身の回りの生活用品を積み込んでいち早く避難を開始
避難の途中に和泉橋の上から、向こう岸に戦火が迫っているのを目の当たりにします。辛うじて母の家族は戦火に巻き込まれずにリヤカーを引いて避難所へ
誰彼となく「あっちへ逃げろ!」という言葉に先導され、群衆が浅草橋方面へ流れるように逃げ惑う中、母の家族はそっちは危険だととっさの判断で反対方向へ避難します。
秋葉原の駅前にある佐久間小学校(現在は思い出の佐久間記念碑)に避難し一夜を過ごします。翌日浅草橋方面で被害者が多数との情報を耳にすることになります。
<この母の体験談を聞いた私の長男>
「危機に直面したときは自分の頭でしっかり考えて判断、行動する」
「世の中の曖昧な情報に流されず、正しい判断をするためには日々勉強や情報収集が必要」
と肝に命じたと言っています。
今まさに現在、予想だにしなかったコロナ禍という時代にも報道や情報に惑わされず自分で考え行動することがいかに大切かと感じます。
新潟県へ疎開
避難所を出た母は5歳下の妹と一緒に上野から親戚を訪ねて新潟へ疎開
父親が戦争の行く末を案じて事前に汽車の切符を用意していたのです。
汽車はトイレの個室の中にも人がいるほどの大混雑、終戦の時期になると集団疎開の汽車の様子がTVで特集されますが、そのぎゅうぎゅう詰めの汽車の中に母も乗車していたわけです。
疎開先では、女子勤労動員によって軍需工場に動員されるのを憂慮した親族のはからいで、母は鉄工所の事務員として何ヶ月か勤務
そのときの就業記録が社会保険庁の年金記録に登録されていました。
15年ほど前、社会保険庁の年金記録管理が社会問題になりましたが、この時の母の年金記録が「消えた年金記録問題」の検証・確認により現在の母の年金にも反映され、未払い分も遡って支給されたのです。
戦後の混乱の中お見合い結婚
お見合いして次に会うときは結婚式というのが珍しくない昭和初期
母も、親族から持ち込まれた見合い話を断れず結婚
空襲で自宅は消失、父親の商売は先行き不透明
そんな状況で姉妹の長女である自分が家を継ぐためには婿養子を承諾してくれる結婚話を断ることはできなかったそうです。
後に古い私の実家を取り壊す時に、物置から回収できずに紙くずとなった不渡手形がたくさん出てきました。
(当時の母にとっての選択肢は他になかったことを物語っています)
こうして生まれてきたのが、安子の娘るいの時代を生きてきた私でございます。
(るいは1944年生まれ、私は1959年生まれなので14年の時代差はありますが)
安子がジャズの流れる喫茶店で珈琲を飲むシーンがありますが、私は中学生の時、母にケーキ店の喫茶室で初めて美味しい珈琲の味を教えてもらいました。
「カムカムエヴリバディ」のるい編もとても楽しみです。
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