1話はこちら⇒ 50代の転落人生|1話 終わりの始まり
次男の結婚をきっかけに、精神的にも穏やかな日々が続きます。
しかし、連休を利用して次男夫婦が我が家に来ていた日のことです。
夫が、怪我がまだ治りきっていないにも関わらず車を運転して、足をひきずりながら突然やってきました。相手の親との挨拶を断られた怒りが収まらないといった感じでした。陰で私が息子たちの感情を操っているとでも思ったのでしょうか。苛立ちは私のほうに向けられていました。
「怪我して収入がなくなったから、もうこの家から出ていってくれ。もし住み続けるなら家賃を払ってくれ」
と今までの言い分とは真逆の理不尽な言葉を言ってきたのです。
式に列席できなかった父親のために、結婚式のDVDを渡そうとした次男に対しても、怒りの言葉と同時にDVDを突き返します。さらに父親と息子の関係が悪化してしまいました。
義父もまた、大怪我をして生活もままならない自分の息子を助けたくなったのでしょう。
「あいつは怪我で働けなくなったからこの家に戻ってくるしかないだろう。自分はまた娘の家に住むことにするから、あなたもここから出ていきなさい。今まで渡したお金でなんとかなるだろう」と信じがたい言葉を言われます。毎月渡していた生活費の余った分を貯めているだろうということのようです。
そして義父は、自分の部屋の荷物を少しずつ運び出して義妹の家に移り住む準備を始めたのです。
義父の部屋はどんどん殺風景なガランとした部屋になっていきます。
ところが、「家賃を払え」と言った夫の言葉は半分本気で半分脅かしで、今すぐこの家に戻ってくるということではありませんでした。
すると義父はまた、やっぱり今まで通りこの家に住み続けると、コロッと気が変わってしまうのです。
「自分がここに住んでいる間はあなたもここに居ていい」とまた数年前のように家と私を守るかのように言われました。家政婦として私が居たほうが都合が良かったのでしょう。
この時は、私はもう大きな決断をしていました。
義父と夫は、私が決して理解することのできない思考回路が別の人格であり、これ以上この生活を続けることは、自分の心身を壊してしまう不安がありました。どちらが常識者・非常識者かといった議論はもはや相容れることは不可能なのです。
この時はストレスと疲労で帯状疱疹にもなってしまいました。
夫とは息子たちの親としていつか向き合う日が来るかも知れないと淡い期待がありましたが、それもここで見事に打ち砕かれました。
今までは、現在の生活を維持することを優先にしてきましたが、今後は生活維持よりも自分の健康を第一にすることに決めたのです。それにはこの環境から抜け出すことしかありませんでした。
しかし、それにはまず住まいを探さなければなりません。ここの家の荷物を持っていくにはある程度の広さが必要で家賃もかかります。住居さえあれば今のパート代のみでなんとか1人で生きていけると思っていましたが、家賃も払うとなると今の収入ではやっていけるはずはなく働き方も変えなくてはなりません。
まずは、今の職場でフルタイムに変更してもらえないか相談しました。還暦間近でパートからフルタイムへの変更はハードルが高く、今まで希望していたにも関わらずなかなか変更してもらえなかったのが現状でした。しかし今回はこの切実な状況を汲み取って下さり、常勤での雇用が叶うことになったのです。これでなんとか家賃を払って生活していく目処がたちました。
こうしていよいよここの家を出ていくことになりますが、荷物の処分が一苦労でした。
私が11歳のときに父を亡くし、女手一つで姉弟3人を育ててくれた母が、嫁入り道具にと持たせてくれたタンスも泣く泣く廃棄処分です。重くて大きいため目の前で無残に壊され、廃棄業者のトラックにゴミとなって積み込まれました。この大型家具の廃棄処分には数万円の費用もかかりました。
息子たちの思い出の品もたくさん処分しました。家族との食事の時に使った家電製品や、大鍋・大皿・食器類もたくさん捨てました。ゴミ袋何十袋あったでしょうか。私が大切に守ってきた家庭がここで終止符を打ってしまった感じです。
ただその家族という部分にこだわってきたことで、自分の心身の健康を崩す恐れがでできたわけです。これからは自分自身のことを優先しようと思えるようになりました。
傍から見てたら歯がゆいほど時間はかかりましたが、やっと、新しい生活が始まりました。
波乱万丈の50代がもうすぐ終わろうとしています。
家を出て1年経った頃でしょうか、あの家で元夫が元義父と一緒に暮らしていると風の噂で耳に入ってきました。
完
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